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   岩槻の歴史を知ろう
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   城下町・岩槻/岩槻公園
戦国時代から江戸時代にかけて、岩槻城の城下町や日光御成道の宿場として都市が形成された。
城内・武家地・町家の名称
城 内 ・・・ 本丸・二の丸・三の丸・新曲輪などの名称がつけられた。
武家地 ・・・ 岩槻城大手門の外一帯に武家地が配置され、通り名称は「小路」がつけられた。各小路の入口には木戸が設けられた。
【広小路、天神小路、諏訪小路、江戸小路、渋江小路、新小路、裏小路】
町 家 ・・・ 庶民の住む地区で街道筋に配置された。9カ町から成り、通り名称は「町」がつけられた。
【市宿町、久保宿町、新町、富士宿町、横町、林道町、渋江町、新曲輪町】
本 陣 ・・・ 本陣は、市宿町に、脇本陣は久保宿町、問屋場(といやば)は市宿町・久保町に、高札場は市宿町におかれた。将軍の日光社参の折には、将軍は岩槻城、家臣は宿内の家々に分宿した。
市(いち) ・・・ 毎月1・6の日に市宿町で市が行われ、木綿市として知られた。市開きには市神(現八雲神社)前で山伏が市場祭文を読んだ。
岩槻(付)城跡
太田道真・道灌父子が長禄元年(1457)に着工し、寛正3年(1462)に完成させた岡城。この地に城を築いたのは古河公方。足利利成氏への布石、奥州街道の押え、江戸・川越・岩槻の3点を結ぶ武蔵国経営の策であったといわれる。
道灌は、当時沼沢地であったこの地に竹の束を一面に敷き詰め、その上に土を盛って築城したといわれる。岩槻城が「浮城」「竹束の城」といわれる由縁である。
戦国時代は内紛などが重なり北条氏が支配、北条氏直の弟氏房が太田の名跡を継承し、諸曲輪の修築に力を注いだ。今日遺構を残す新曲輪は豊臣方に対する備えで作られた出丸である。
天正15年(1587)豊臣秀吉の武将浅野長吉の猛攻(岩槻合戦)にあい落城した。この合戦で岩槻案内をつとめたのが星野権兵衛(後の浦和宿陣屋、関東市場取締役)である。
徳川家康は、江戸入府にあたり高力清長を岩槻に封じた(2万石)。以降、城主がめまぐるしく変わったが、宝暦6年(1756)大岡忠光(9代将軍家重の側用人・若年寄)が入城。大岡氏が8代続き明治を迎えた。
城は明治4年(1871)取り壊され、公園となった。
岩槻城城門
この門は岩槻城の城門と伝えられる。
岩槻城廃城(1871)後、埼玉県庁や県知事公舎の正門として利用されたが、昭和29年岩槻市に移管。同45年現在地に移設された。
人形塚
昭和46年、岩槻人形連合協会が建立。この塚の前で毎年秋に人形供養と人形に携わった人々の法要が行われる。
塚のデザイン 関根将雄氏
このデザインは岩槻人形の統一商標とされている。
ひょうたん池/八つ橋
毎春この池で人形組合主催の「流しびな」が行われる。この行事は子どもの無病息災を願う古来からのもので、子どもの災厄を人形に移して川海に流し、祓い清めたのが初めといわれる。
新曲輪/堀障子
新曲輪は天正18年(1590)豊臣方に対する備えとして作られた出丸である。ここに空堀が掘られた。
堀障子は、堀に設けられた障害物のことである。堀に入った敵兵の移動を妨げたり、鉄砲の命中率を上げる目的などで設けられた。
 
岩槻城址公園写真
岩槻城址公園
岩槻小史
■出発/岩槻駅
■市宿通り・久保宿通り
岩槻公園(岩槻城跡)
久伊豆神社
慈恩寺
十三重塔
遷喬館
■浄安寺
時の鐘
■旧武家屋敷ゾーン
■到着/岩槻駅
岩槻城黒門
岩槻城黒門
岩槻城空堀跡写真
岩槻城空堀跡
人形塚写真
人形塚

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