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   岩槻小史
〈地勢〉
岩槻は都心から30km圏にあり、元荒川・綾瀬川・中川など大小の河川の浸食によって形成された低地に拡がっている(最高海抜18m、低海抜3〜6m)。
大地の縁辺には多くの貝塚や集落地の遺跡が分布し考古学の宝庫といわれる
〈中世・戦国期〉。

〈中世・戦国期〉

中世は渋江氏・箕勾(みのわ)氏・柏崎氏・金重氏・須久毛氏らが鎌倉幕府に従い御家人として活躍した。鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏が支配した。
尊氏は、京都室町に幕府を開き、鎌倉には次男基氏に鎌倉府を開かせ関東における鎌倉府の支配体制を確立した。やがて室町幕府と鎌倉府の対立が深まり、古河公方と菅領上杉氏の対立に至る。
〈岩付(槻)城の築城〉
上杉持朝は太田道真・道灌父子に命じ、長禄元年(1457)岩付城を築かせ古河公方に対する前線基地とした。以後、岩付城は関東戦国期争乱の中心地となった。争乱後、岩付城は北条氏の支配となったが天正18年(1590)豊臣秀吉の武将浅野長吉らの猛攻にあい落城した。
〈江戸期〉
徳川家康は関東入国後、家臣である高力清長を岩槻城の初代藩主とした。清長は荒廃した岩槻の復興に努め、農民の還住、城や城下町の整備に尽力した。
岩槻城は徳川幕府重職の足府の城として位置付けられたが、藩主の交代が激しく藩領も変動した(2万石〜6万石)
最も在住が長かったのは大岡氏で宝暦6年(1756)〜明治4年(1871)8代116年であった。大岡氏時代は9代将軍家重の側用人忠光から始まるが、代々奏者番、若年寄などの要職をつとめた。最後の城主忠貫(ただづら)は戊辰戦争ではいち早く官軍に帰順した。
〈近代〉
明治4年の廃藩置県により岩槻藩は廃され岩槻県となり、同年11月埼玉県に統合された。埼玉県庁は岩槻に置くことが決められたが、新政府に不信をもつ旧岩槻藩士族が猛反対したため、他人支配のアレルギーが少ない浦和が県庁となった。
〈鉄道と岩槻〉
明治18年の東北本線敷設にあたり、岩槻は東北線、高崎線の分岐地の候補に上がったが反対運動が激しく、結局大宮に決定した。
東武鉄道 紆余曲折を経て昭和19年現在の東武野田線が誕生。
武州鉄道 大正13年蓮田〜岩槻間、昭和3年大門、昭和11年新根(川口)まで延長したが昭和13年業績不振で廃業。
〈岩槻人形〉
明治期〜 東京への依存度が高く、東京問屋の下職産地として発展。
昭和期〜 関東大震災により東京の人形職人が岩槻に移住し、人形の品質向上と生産力増大に寄与。「人形のまち岩槻」が確立されていった。
岩槻城址公園写真
岩槻城址公園
■出発/岩槻駅
■市宿通り・久保宿通り
岩槻公園(岩槻城跡)
久伊豆神社
慈恩寺
十三重塔
遷喬館
■浄安寺
時の鐘
■旧武家屋敷ゾーン
■到着/岩槻駅
岩槻駅前写真

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