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   浦和小史
玉蔵院写真 埼玉県庁写真

浦和という地名
 海浜地名から起こったと言われるが、諸説あり不詳。縄文期、東京湾の水が入り込み市域の半分以上が海面下であった。人々が住み始めたのは1万数千年前からといわれる。浦和の名称が初めて見られるのは「大般若経」の奥書(応永3年(1396)日光輪王寺)である。
浦和の推移
<宿駅から県都へ−政治と文教の中心−>
−中世−
 生産力の高まりとともに余剰生産物の交易が盛んになり、大門・野田・浦和に市が誕生した。
 玉蔵院は関東真言宗十か檀林(だんりん:僧の学問所)の1つとして栄え門前町を形成した。
−近世−
 徳川家康が関東に入府すると浦和郷は岩槻城主高力清長の領地となり、家臣中村吉照が代官となり、針ヶ谷に陣屋をもった。家康は浦和近辺に鷹狩りに訪れ、浦和宿に御成御殿(常盤公園)を置いた。寛永期には紀伊徳川家の御鷹場も置かれた。
  徳川幕府が成立(1603)すると、高力氏の支配は終わり、市域は代官支配や旗本知行地に分断された。
  中山道が整備されると浦和は宿駅とされ、本陣・問屋が置かれ、明治22年まで星野家がこの役についた。
−近現代−
  明治2年浦和県庁、同4年埼玉県庁が置かれ、以降今日まで県都として発展する。明治19年、同30年、昭和24年の3度にわたり県庁移転問題が生じたが、そのつど事態を収束し今日に至る。
  明治16年浦和駅開設。昭和7年京浜東北線開通。昭和11年北浦和駅開設。昭和36年南浦和駅開設。昭和48年武蔵野線開通。

平和な歴史のまち
 浦和には大きな戦乱もなく、有力な豪族も生まれなかった。江戸期は幕府の直轄領や旗本領で、江戸を取り巻く軍事上の緩衝地帯の性格をもっていた。浦和は個性のないまちといわれるが、「平和的な歴史のまち」自体が個性である。県都となり、この平和な土地の歴史が文教都市のイメージを醸成する間接的な要因となった。市民各々が持つ個性と多様性、この複合体が浦和の特色と思われる。
  浦和の核は県庁である。県庁所在地であるが故に政治・経済・教育・文化の中心でありえた。

浦和小史
■出発/北浦和駅
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北浦和駅周辺
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廓信寺
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北浦和公園・浦和北公園
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官庁街
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二七市場跡
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常盤公園
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浦和宿本陣跡
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裏門通り周辺
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玉蔵院
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埼玉会館・浦和図書館
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浦和駅周辺
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調神社
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■到着/浦和駅

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