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   与野小史
円乗院写真 本町通り写真

与野という地名
 九州の方言「よない」から起こる。これは、金品を出し合い共同して他人を補助することを意味する。転じて「よない」による新しい開発地を言う。
与野の推移
−中世−
■与野の地名の所見は、鎌倉期に作成された「融通念仏縁起絵詞」(正和3年/1314年)の「武蔵国与野郷に一人の名主ありけり」の記載とされる。与野郷は当時から念仏信仰の盛んな所として知られた。
■当地は鎌倉街道の要衝として繁栄。このため「与野の市」が成立し、米穀など農産物の交易が盛んであった。
−近世−
■江戸時代に入り五街道が整備されると、与野は中山道の脇往還の宿場町の色彩を帯びた。町の中心は与野本町であった。
■六斎市(ろくさいいち)・・・・・与野本町には室町期から三斎市が立っていたが、戦国時代から六斎市に発展した。六斎市とは月に6回市が立つことをいうが、与野は4と9の日、浦和は2と7、大宮は5と9、岩槻は1と6、原市(上尾)は3と8という具合に市がダブらないようになっていた。
■市では「穀物・芥灰(肥料)・荒物・小間物・あい物(塩魚)」などが取引された。4、9の日以外でもヒナ市・盆市・暮の市などが行なわれ、特に暮の市は「与野の夜市」として知られにぎわった。
■本町通りを歩くと、道路と住宅の間に空き地があるのは市の名残で、商品はここに並べられた。市の繁栄を祈った石祠が与野氷川神社にある。
■本町通りは上町、中町、下町に三分され、それらの境に地蔵と井戸が置かれた。里謡で「与野の夜市は迷子にならぬ。三つ井戸三つ地蔵。」と歌われた。文化文政時代の家屋は、浦和宿208軒、大宮宿200件に対し、与野は304軒。民謡で「大宮すたれて与野繁昌」と歌われた。
■江戸中期には見沼代用水の開削に平行して、低地の高沼(鴻沼)周辺(現在の下落合、中里、大戸、与野、鈴谷など)が干拓され新田開発が行なわれた。
−近現代−
□鉄道開通と与野本町の衰退□
■高崎線(明治16年)、東北本線(明治18年)が開通したとき、地元民はこぞって反対したため路線は浦和と大宮を結ぶ東端に引かれた。これにより与野本町は衰退の道を歩む。与野駅は浦和、大宮に遅れること30年後の大正元年に開設された。
■京浜東北線(昭和8年)の開通、同11年に北浦和駅開設により東京からの移住者が増加し、東京の衛星都市化が促進された。
□国道17号線の開通□
■昭和8年、昭和恐慌の失業対策事業として国道17号が開設された。戦後のモータリゼーションの進展に伴い、この沿道に自動車ディーラーやその関連企業が進出し、県下一の自動車販売拠点となり今日に至る。


人物
■西沢こうや・・・・・江戸後期の儒学者。「与野聖人」といわれる。西沢家は農業と質屋を家業としたが、質屋は人を苦しめると考え廃業。証文は焼き捨てた。天明3(1783)年の大飢饉のときは、備蓄していた穀類をすべて農民に放出。このため与野では餓死者が出なかった。文政4年79歳で没。長伝寺に眠る。
■鈴木荘丹・・・・・江戸後期の俳人、医師。与野八景の創始者。

与野小史
■出発/与野本町駅
↓徒歩5分
円乗院
↓徒歩5分
与野・本町通り
↓徒歩10分
妙行寺
↓徒歩1分
与野の大カヤ
↓徒歩25分
与野・上町氷川神社
↓徒歩20分
長伝寺
↓バス
彩湖
↓バス
田島ヶ原さくら草自生地
↓バス
別所沼
↓徒歩5分
■到着/中浦和駅

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