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   見沼の姿と歴史を知る(1)
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   見沼小史 <江戸編>
 

はじめに
太古の時代、見沼は海水が入り込む入り江であった。海退後、河川の土砂によって流入口がふさがれ大きな沼沢地に変わっていった。
天正18年(1590)徳川家康は江戸入府と同時に江戸の都市づくりに着手した。その重要施策の1つとして関東一円の治水事業を関東代官伊奈忠治(いなただはる)に命じた。
忠治は利根川や荒川の瀬替(せがえ:流路変更のこと)など、大河川の治水事業を完成させていった。これにより江戸と諸国を結ぶ船運による物資の流通が円滑になった。

見沼溜井
寛永6年(1629)忠治は荒川の瀬替えに平行して見沼溜井造成に着手した。見沼の両岸が最も狭まる大間木附島(浦和)と木曽呂(川口)の間に人口の堤を築くことにした。(距離8町 約870m)この堤は八丁堤と呼ばれ、今日は道路として姿を残す。
八丁堤により沼沢地は武蔵野国第1の湖沼(1,200ha)となり、堤より下流の村々の灌漑用水に供された。

見沼干拓と見沼代用水
江戸中期になると幕府の財政が逼迫した。8代将軍吉宗は財政立て直しのために新田開発を推進した。その一環として見沼溜井の干拓を井沢弥惣兵衛爲永に命じた。
爲永は享保10年(1725)見沼の下見をし翌年測量を行なった。享保12年(1727)用水路の工事を平行して八丁堤を切って見沼干拓工事を開始した。これらの工事はわずか6ヶ月で完成、ここに1,200haの新田が誕生した。

ここがポイント
【見沼代用水】
利根川から取水(行田市中条)、総延長は60km。途中で東西に分岐(上尾)、東流を東縁(ひがしべり)、西流を西縁(にしべり)といい見沼台地の縁をはう形で流れる。元荒川や綾瀬川との立体交差は「掛樋」「伏越」などの技術が使われている。
所在地/さいたま市緑区尾間木
アクセス/JR「東浦和駅」より徒歩15分
■出発/東浦和駅
↓徒歩15分
見沼通船堀
↓徒歩15分
清泰寺
↓徒歩20分
吉祥寺
↓徒歩15分
氷川女体神社
↓徒歩15分
国昌寺
↓徒歩15分
萬年寺
↓徒歩15分
さぎ山記念公園
↓バス
■到着/浦和駅
 

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